2012年5月26日土曜日

桧山納豆 わらづと

夫ちゃんが藁苞納豆を食べた事が無いと言うので、買ってみました。
恵比寿三越の地下にありました♪♪
追記:とっても喜んでいましたが、藁から剥がすのが面倒なので今回で満足したそうです。美味しい納豆でした(^_^)

下記抜粋:
桧山納豆(わらづと:藁で造った苞)は、先代からの教えを忠実に守り、昔ながらの独自の製法に近代的技術を加え、懐かしい味を今に伝えております。自然遺産「白神山地の豊かな土と水で育まれた地元産「あきた白神大豆」を100%使用、稲わらも「あきたこまち」を杭かけして自然乾燥させたものを用いております。納豆菌が大豆に浸透し、ちりめんじわができるのが特徴です。大豆本来の噛み応えがあり、現代風の納豆とは一味違う、すべて手造りの心が生きた、素朴な美味しさをお召し上がりください。

東北地方に伝わる納豆の起源はいろいろありますが、どれも古い言い伝えで史料的に確認できるのもはありません。しかし、前九年の役(1051年)で奥州(東北地方)を追われた安倍宗任が平戸の松浦潟(九州)に流された際、熊本で「ナット」を造らせ広めたことが肥後風土記には残されております。
いずれにせよ、上記のことから考えても「糸引きナット」の発祥の地は東北地方であることが推測されます。
檜山(桧山)納豆の発祥についても詳しい史料はありませんが、故河田駒雄氏(元秋田県文化財保護協会顧問)によれば、檜山城主秋田安東氏時代(1452年頃から1602年)に同地区に移り住んだ落人が代々製造を子孫につたえ、江戸時代中頃、加藤新太郎がその後、九嶋長七、九嶋又四郎の両家もこの製法を習い、家伝の秘宝として三軒に限られたのです。加藤新太郎は明治の初め頃、また、九嶋長七は明治17年(1885年)頃廃業しました。大正初めに九嶋儀三郎(後、又四郎を襲名した)、その後、西村長治郎(又四郎の息子)、明治から昭和にかけては西村長蔵、14代目西村庄右衛門(長蔵の息子)だけが代々家伝を守り続けており、現在は15代目庄右衛門(庄右衛門の長男省一)が受継いでおります。
http://www.hiyama710.com/
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戦 は長期戦となり、食料が不足してきた。義家は地元の農民に食料として煮豆を供出させることにした。急なことだったので入れ物が間に合わず、農民は煮豆を俵に詰めて差し出した。数日後、それはいい香りを放ち、糸を引くようになった。義家が試しに食べてみたところ、「これは、ウマイ」。やがて農民たちもこれを知り、納豆を作って食べるようになった、というのだ。

もともと納豆は煮大豆をワラヅト(物を包むためにワラを編んだもの)に包み、ワラに付着している納豆菌で自然発酵させたもの。米の国・秋田はワラが豊富で、味噌や豆腐、納豆などの原料となる大豆も盛んに栽培されていた。県内各地ではこれらの原料を使い、業者はもちろん各家々でも納豆づくりが行われていた。
納豆はもともと秋から冬、春にかけてつくったものです。納豆は発酵食品ですが、気温が高くなると二次発酵してダメになってしまう。だから冷蔵庫のなかった時代、各家々はもちろん、私の家のような納豆を商売にするところでも夏はつくらなかった。
大豆本来の豊かな風味に加え、しっかりとした歯ごたえが身上。ひとかみひとかみ味わって欲しい納豆だ。
http://common.pref.akita.lg.jp/aktshoku/aji/index.html?article_id=373
わらづと納豆についてURL↑
http://machakoara.blogspot.jp/2012/05/20120527.html
開いて写真を撮った記事↑

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